先週、やっと研究テーマというか、自分が見たい看護の現象にたどり着いた。
ほんとにもうだめだと思った。
現象とは、名前のついてない「なにか」である。看護は「これだ!」というものが目に見えにくい分野であり、数値化することも難しいため、この形のない「現象」というものを明らかにしたいというところから看護研究は出発する。例えば、「施設に入居した高齢者はどのようにその場に馴染んでいくのか」みたいな。
1月から毎週この作業と先生との話し合いに3時間費やし、最後は0時までの4時間半の耐久レースだった。認知症か、いやいや施設か在宅か、みたいにふらふらしたけど、急性期病院にいたときの経験が私のこだわりになっているので、そこを先生はつきつめて聞いてくれていたのだと思う。自分が気づかないと始まらないからである。
物事が焦点化していくという経験を味わった。
しかし、自分の経験や価値観、思考の偏りが明らかになっていくにつれ、今までやってきたことが自分自身をえぐるという地獄を味わった。
そして私はゴミにまで堕ちた。
しかも不燃ゴミであり、処分する方法は埋めるしかないと思っていた。
とにかく、2度めの「よろしいと思います」をいただいた。ニヤリはなかったが。
先生は「私は優しくないからね。ハードラブだから」と言う。
ハードラブて。
たしかにハードではある。
しかし、こんな学生に4時間半も費やせるのはラブがあるからか。
ゴミにかすかな希望がみえてきた。
もしかして生ゴミにはなれるかもしれない。
せめて畑の肥やしぐらいには。
喜んでいる暇はない。次は本格的な文献検討である。その分野でどんな研究がされているのか、新しい知見が得られないと意味がないし、研究対象者への倫理的な問題もあるからだ。
今やっているのは、医学系の文献検索サイト「医中誌」で検索して出てきた614件の文献の抄録にざっと目を通し、その中から60件を選択して読み込み、どんなことが書かれていたかをまとめる作業である。
じつのところ、先生が何を言っているのか分からないときがある。教授は雲の上の住人なので、下界の者とは話が噛み合わないことも日常茶飯事である。
思い出すと、入学当初からそうだった。
「次の授業までにここを読んできてください。」と先生に言われ、私と相方はちゃんと「読んで」次の授業に参加した。
すると先生は「資料は?」と。
はて? 資料とは?
先生の言われる、「読んできてください」は、「読んで(要約して考察をレポートにしてまとめてプレゼンの準備をして)きてください」ということだったらしい。
今では当たり前だが、先生の話を理解するためにはすべて自己学習が必要である。
研究についてちんぷんかんぷんの話でもとりあえずノートをとり、あとでそれに関連する本を読めば、なんとなく理解できる。
抽象度の高い話も「なーるほど、こういうことかー」となる。
研究のお作法が書いてあり、助かってます
今日は15の文献を読むぞ。
本の購入と文献の取り寄せの費用がかさんでいく。
がんばろう。